20191214


最近、人に日記を読んで聞かせてみませんか、という話をしてもらった。

日記といえば、小学校4年生のときに未来の自分との交換日記をしていたことが最初なのかもしれない。
月に1回と決めていたけど、なんとなく忘れて年に1、2回書いていた気がする。
なにを書いても見るのは未来の自分だけで、自分で許してあげられる方法としてその日記を使っていた。

それから中学生になったときにお小遣いで少し分厚めの手帳を買って、うしろのメモのところに色々と書き留めていた。
読み返せばきっとどうしようもないことも書いてあるけれど、捨てずに白い本棚に並んでいる。

残念ながら、自分との交換日記をある日見つけたときは、どうしようもなくいたたまれない気持ちになって捨ててしまった。
きっとあれを読めなくなってしまったときにわたしは少し大人になったのかも。


あらためて、自分のことを人に読んで聞かせるという行為はとても勇気のいることのような気がする。
そう言えば今年のはじめに考えた抱負は、人に見せられる文章を書くだったことをこの年の瀬に思い出した。

きっとこのなにかの繋がりには意味があると信じて、このブログに書き留めることにきめた。
誰かが読む可能性があるというだけで、背筋がしゃんと伸びるなあ。

わざわざ時間をとって喫茶店で日記を書いたり献立を考えたりするという記事を読んだけれど、なかなか書くスピードと頭の中のスピードが合わなくて、文字を残しつつ、ということに。



今日は天気のいい日だった。
休みの日はなかなか起きることができずに、やっとおきても起きても長くお風呂に入ってしまって家を出るのが夕方になってしまった。
普段ははけないスカートをはいて、カミーユアンロの「蛇を踏む」を見に行った。
最初の部屋には花の匂いがいっぱいで、
革命家にも花を愛することはできるか、というタイトルは力強くとても好きだった。
ぼーっと何度も何度もへやを行ったりきたりしてやっと出たけれど外は寒い。

作品の中にいた川上未映子は、すべて真夜中の恋人たちしか読んだことがなくて、ヘヴンも読んでみようかな。
言葉のかたまりから一文だけ抜粋することは、ほつれていってしまうわかりづらい表現な気もするし、それだけで興味や想像が働いていくことがいいのかもしれないし。
チャタレー夫人の恋人を手に取ることができたのはうれしかった。

約束の人は来ないまま、カフェラテは冷える。




20191214