20200104


あけましておめでとうございます。
気づけば年が明け、お正月も終わりに向かっています。
ついに2020年ですね。
とても先のような気がしていましたが、必死に歩いていたらここまで来たような感じです。

年が明けるというのはとてもあっけなく、みんなに待たれていた瞬間はあっという間に過去になり、止まることなくわたしたちを新しい年に引きずり込んでいくようです。
いつも、年末年始がどうしても苦手で、決まったおめでたい料理を準備してみんなで囲むこと、今日が来ることを1年で一度だけ意識することがあまりいい気持ちではありません。
新しい朝は今日だけではないはずなのに、それはだれにも決めることはできず、みんなそれぞれ訪れる時は違うのに、一斉に明ける朝をありがたがること。
きっと、なにかが新しくなることの期限に抵抗があるような気がします。
使い古して慣れていたものを新しくする、それはなんとも心の準備がいることなのに、その準備もめんどくさがってあとまわしにして、気がつけば捨てられて、新しいものを与えられたようなあっけない虚しさが残ります。

そんなことから逃げるように、年が明けた昼間から支度をして、だれとも新年の挨拶をしないまま船に乗りました。
かたいカーペットの上で、見知らぬひとと隣り合わせになりながら少し緊張して超えた夜の先には、まだ日がのぼっていない島がありました。
今わたしは、伊豆大島にいます。今は帰りの船を待っているところです。
ここは、さほど大きな島ではないですが、島全体が山のようなかたちで、どこに行くにも坂を上らなくてはいけません。少し移動も車がなければ体力を使ってしまいます。

ひとりきり、移動手段はバスと自転車。
車がないと不便な島の中で、あまり移動はできませんでした。
でも、朝焼けも、上りきっていない太陽が照らす草木も、風が少し強い山頂も、沈んでいく橙色の夕陽も、照らされて焼けていく海も雲も、真っ暗の中に瞬く星も、余すことなく見れていたような気がします。

前のようにうまく人とは交流できなかったけど、これはこれでよかったのかなとおもいます。
ほんとうは、もっと上手に旅をできたのかもしれないとは思いますが、ひとまずわたしの逃避行はここで終わります。

ドミトリーのゲストハウスもなんだか慣れてきて、自由にあきらめることのできる旅。
スケジュールを船や朝の温泉の中でたてても、立てた予定通りに行かなくて道を変えてしまっても、わたしはとても自由でした。

わたしは旅をしながら、沈没する場所を探しているのかもしれません。
戻らなくてもいい沈没。
すてきな旅先があればお知らせくださいね。
今年もどうぞよろしくお願いしますいたします。
きっといい年になりますよ。


では、また。


20200104

20191217


こんにちは。
お元気ですか。
昼間はあたたかくても夜はうんと冷えて、温度調節がむずかしくなっていますね。

駅に行く途中に家が建ちはじめて、それを毎朝見るのが日課になっています。
なにもなかった土の地面に、売却中という旗がゆらゆらと揺れていたと思ったら、あっという間に土台ができて、みるみる高く鉄骨が伸びて今はうすいすけすけの布に包まれています。
あの布はなんというのでしょう。ご存知ですか?
家が建つのは本当にはやくておどろきます。
土台が家の間取りになっているのを見てその線の延長を想像して、ゆくゆく見えなくなる家の中を覗いているようです。

建物といえば、少し前に大きな施設の上棟式というものにお邪魔したことがあります。
わたしはそのとき、その儀式の存在を初めて知ったのですが、関係者のえらい人たちが梁に名前を書いて、無事に長く立っていられるように願って、梁を埋め込むところをみんなで見上げていました。
しばらくしてすぐにその建物は完成しましたが、もうどこに名前が書いてあるかは誰もわかりません。

わたしが知らない儀式が世の中にはたくさんあるようで、これからどれだけのものに立ち合えるのか、存在を発見できるかわかりませんが、すこしたのしみになりました。
なにかおもしろいものや最近知ったものがあれば教えてください。

それでは、ゆっくりお風呂に入って、しっかり休んでくださいね。

20191214


最近、人に日記を読んで聞かせてみませんか、という話をしてもらった。

日記といえば、小学校4年生のときに未来の自分との交換日記をしていたことが最初なのかもしれない。
月に1回と決めていたけど、なんとなく忘れて年に1、2回書いていた気がする。
なにを書いても見るのは未来の自分だけで、自分で許してあげられる方法としてその日記を使っていた。

それから中学生になったときにお小遣いで少し分厚めの手帳を買って、うしろのメモのところに色々と書き留めていた。
読み返せばきっとどうしようもないことも書いてあるけれど、捨てずに白い本棚に並んでいる。

残念ながら、自分との交換日記をある日見つけたときは、どうしようもなくいたたまれない気持ちになって捨ててしまった。
きっとあれを読めなくなってしまったときにわたしは少し大人になったのかも。


あらためて、自分のことを人に読んで聞かせるという行為はとても勇気のいることのような気がする。
そう言えば今年のはじめに考えた抱負は、人に見せられる文章を書くだったことをこの年の瀬に思い出した。

きっとこのなにかの繋がりには意味があると信じて、このブログに書き留めることにきめた。
誰かが読む可能性があるというだけで、背筋がしゃんと伸びるなあ。

わざわざ時間をとって喫茶店で日記を書いたり献立を考えたりするという記事を読んだけれど、なかなか書くスピードと頭の中のスピードが合わなくて、文字を残しつつ、ということに。



今日は天気のいい日だった。
休みの日はなかなか起きることができずに、やっとおきても起きても長くお風呂に入ってしまって家を出るのが夕方になってしまった。
普段ははけないスカートをはいて、カミーユアンロの「蛇を踏む」を見に行った。
最初の部屋には花の匂いがいっぱいで、
革命家にも花を愛することはできるか、というタイトルは力強くとても好きだった。
ぼーっと何度も何度もへやを行ったりきたりしてやっと出たけれど外は寒い。

作品の中にいた川上未映子は、すべて真夜中の恋人たちしか読んだことがなくて、ヘヴンも読んでみようかな。
言葉のかたまりから一文だけ抜粋することは、ほつれていってしまうわかりづらい表現な気もするし、それだけで興味や想像が働いていくことがいいのかもしれないし。
チャタレー夫人の恋人を手に取ることができたのはうれしかった。

約束の人は来ないまま、カフェラテは冷える。




20191214